2023年10月某日

16年あまり一緒に暮らした愛猫を見送った。

投薬、入院、通院、点滴を続けても
あちらを治せばこちらに不具合という状況だったし、ご飯も水も自力では摂れなくなっていた。
子猫の頃からお世話になっていた獣医さんの「何もしないという選択もあります」との言葉に
「もう苦しい思いはさせたくありません。このまま見送ります」と即断したのは正しかったのか?
冷たくはなかったのか?治療を続けていれば回復してくれたかも知れないと考えてしまうこともある。

その後はなるべくそばにいて、何かあれば声をかけて撫でて
夜もリビングの床で猫の隣に転がり、ほんの少しの気配や物音も聞き逃さないようにした。

あの子は「死」というものを理解できずに
「具合が悪いってのに『なでなで』うざい!」と思っていたかもしれない。
看取ったのはその決断から3日目の早朝4時のことだった。
今なら「こういうことだったのね」と許してくれるだろうか?

10歳で心臓に雑音がみつかり、投薬をはじめてからは1日も休まずに薬を飲んでくれた。
療養食も好き嫌いせずどころか、むしろ好んで食べてくれた。

心臓、腎臓、肝臓が悪くなっていて
腎臓のために点滴を使えば心臓に負担がかかるし胸に水が溜まる。それを抜くのだって苦痛はあるだろう。
点滴をやめれば心臓の負担は少なくなるが、腎臓は悪化するといった状況だった。
数年前から耳は聞こえにくく、数か月前からは目も見えにくくなっていたようだし、数週間前からはご飯のお皿は匂いを頼りにしていたようだった。
足元もおぼつかなくなっていた。

十六歳と七ヶ月だった。あと数日で八ヶ月だった。
猫、アメリカンショートヘアとしては長生きしてくれたのではないだろうか?天寿を全うしてくれたのではないか?
この子と一緒に過ごしたいと思い、初めて抱っこさせてもらった時に真っ先に頭に浮かんだのは「この子を看取ることはできるか?」だった。
覚悟していたとはいえ、ゆっくりと弱っていくことで残りの時間の大切さを改めて気づかせてくれて、腹をくくらせてくれた。

近所の猫が迷い込んできてほぼうちに入り浸っていたことはあったが、本格的にお世話をした猫はこの子が初めてだ。
だから気づかなかったけど、猫さまとしてはとんでもなく聞き訳がいい子らしい。
夜に具合が悪くなってお世話になった動物救急の先生によると
「6年も頑張ってくれているんですか?どうやってもお薬を飲んでくれない子、療養食を食べてくれない子は多いんですよ」。
「猫はご飯を食べてくれるだけで偉いんですよ」とのこと。
そういえばお世話になっていた獣医さんでも薬を出してもらうたびに「お薬は飲めていますか?」と確認されていたっけ。


私は優しい飼い主ではなかったかもしれない。もっとこうしていればと悔やんでいることも多い。
疲れていてイライラしていたこともあるし、病人の世話で2年ほど構ってあげられなかった。猫にとっての2年は気が遠くなるほどの長さだっただろう。
この子のおかげでその時期を乗り越えることができた。
その後も手続き、お寺関係、片付けで数か月前までバタバタしていた。

この子の存在が頭からすっぽ抜けていたこともある。
寝起きに部屋の隅から水音が聞こえてきて「なにごとっ!?」と見てみたらトイレ使用中だったり
掃除を済ませたはずなのに、なんでこんな大きな綿埃が…と近づいたら目が合ってびっくりしたり…
お粗末な飼い主でもあったことも否定できない。

でも写真を見返すと
飼い主のひいき目を抜きにしても、とっても幸せそうに見える。
見るたび、思い出すたび、今も私の愚かさを幸せな可愛さで上書きしてくれている。

年を重ねて寒さが堪えるだろうとあったかグッズを新調して、そろそろ抱っこのシーズンかと楽しみにしていた。
その「抱っこ」は逆立ち状態で私の太腿に頭をのせて、顎の下にあたりに「*」という姿勢を好んだ子だった。



     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

それ以上に幸せだったのは私のほうだ。



年齢的にもう猫の一生に責任を持つ自信はないから、この子が最後の猫になるだろう。
その数少ない機会にうちに来てくれて本当にありがとう。